うつ病を治すための個人的方法

個人的経験からうつ病の効果的な治し方について解説していく。

思考の改善について2 暗示法について

前回の記事では物事の原因となる思考の重要性について述べた。しかし、思考とはその個人が今までの人生で積み重ねてきた習慣の上に成り立っているものであり、いきなり思考法を変えろと言われても、適切な方法論なしではなかなか難しい面もあると思う。日々の瞑想の実践を続けていれば、自然と良い方向に思考が向かうものだが、それとは別にもう一つ有効な方法がある。それが今回紹介する自己暗示法である。

 

催眠と瞑想は同じく変性意識状態を意図的に作り出すことによって、無意識に働きかけるものなのであるが、この自己暗示法は主に催眠の分野で多く用いられている。催眠術というのも胡散臭いものとして扱われてしまうきらいがあるが、実は非常に科学的かつ合理的に整備された方法論なのである。その効果は強力で、たとえば人参が嫌いで全く食べられないと言う人に、人参が甘いお菓子に感じられるように暗示を与えると、一切の嫌悪感もなく大量に人参食べてしまうということがごく当たり前のように起こってしまうのだ。もちろん他人の無意識を操るという催眠の手法は悪用されることも多々あり、マルチ商法やカルト宗教などの洗脳的手法は、しばしば社会的な問題として取り上げられることがある。

 

自己暗示とは、こうした暗示法の持つ力を自らに施すことによって、習慣化されている否定的な思考を書き換え、より自身にとって望ましい建設的な思考ができるように訓練をしていくことである。カルト宗教の洗脳などと違って、暗示を与えるのは自分自身なので他者の制御下に置かれる心配は皆無であり、適切に用いるならば安全性に関してはまったく問題がないと言える。自己暗示法を用いるにはいくつかの注意点があるので列挙しておこう。

 

・否定的な単語を使わない

否定的な単語はそのまま否定的な印象を潜在意識に刻み込む。暗示は常に肯定的な単語のみを用いるようにしなければならない。

 

・否定形を使わない

前項に続いて潜在意識は肯定形と否定形の区別ができず、単語の持つ印象をそのまま記憶してしまうとされる。なので例えば「緊張しない」という暗示を繰り返すと、緊張の暗示だけが増幅され逆効果となってしまう恐れがある。この場合、「自信に満ち溢れている」と言い換えるのが良いだろう。

 

・自分と他者の区別をしない

同様に潜在意識は自己と他者の区別もできないとされる。仏教で前業を積む際には自他不二の姿勢が大切だとされるのもここから来ているのだと思われる。例えば、「私は繁栄し満たされている」と言う暗示を与えた直後に、「むかつくあいつが不幸に見舞われる」と言う暗示を刻み込んでいるならば、効果は帳消しとなってしまう。この考え方は日常生活でも非常に重要で、自らの成功を願うならば他者への攻撃性や憎しみは徹底的に捨て去るべきである。さもなければ習慣的に刻み込まれた負の感情がやがて自分自身に牙を向くことだろう。

 

・より短く端的な文章を繰り返す

暗示を与える際には長く難解な文章は不要である。暗示文は短くわかりやすいものがより強力である。例えば中村天風氏のように毎夜鏡に向かって「お前は信念が強くなる」と言い続けるような簡便なものが良い。何なら「自信」「健康」「成功」など、自分で肯定的な印象を抱きやすい単語を繰り返すだけで良い。

 

・過程についてはあまり気にしない

普段の日常生活における論理的な思考を元にしていると、実現の筋道が具体的に見えないことに対しては、どうしても無理だとか不可能だとか言う考えが先に立ってしまいがちである。しかし、自己暗示においてはそのような実現の過程については余り考える必要はなく、ただ単純に肯定の言葉を繰り返しているだけでよい。以前の記事でも述べたように、思考はそれそのものが物事の原因となり、内的・外的双方の状況を作り出す。肯定的な思考を潜在意識に植え込んだら、結果はすべて神仏が巡らせてくれる縁に任せてしまうような心持ちでいるのが良い。縁(プラティーティヤ)とは元々原因から結果を生じさせるきっかけの事を言う。人間にできるのは原因を植えることだけで、結果をもたらす縁は、我々の力の範囲外にあるのだ。

 

・変性意識状態で行う

 論理的な思考が往々にして暗示の妨げになることから、より無意識に言語を直結できる変性意識状態に入ったあとで、暗示を行うのがより効果的である。催眠両方でも、まずは四肢の力を抜いたり呼吸に集中させたりする催眠誘導を入念に行うのはこの理屈からである。音声や専門の術士によって変性意識状態に導いてもらうのも一手だが、できれば自分で瞑想法を覚えてしまうのが安上がりで時間もかからないので良いだろう。まだ瞑想法にあまり熟達していないという人は、夜布団に着いた後、眠りにつくまでの間のまどろみを利用するというのもよい。この時間は誰でも意識と無意識のつながりが覚醒中よりも強くなっているのである。少々話は逸れるが、その故に眠る前にはできる限り否定的な考えは持たないようにしたほうが良い。無意識に無益な思考が刻み込まれ、好ましくない結果をもたらしてしまう危険性がある。

 

このようにして、毎日暗示法を用いながら少しずつ自分の望む結果を無意識に刻み込んでいくならば、いつか何かのきっかけによってそれが実現することを目の当たりにするであろう。普通の人々は思考が形のない現実に力を持たないものであると思いこんでいるが、それは大間違いなのである。思考の力は適切に用いれば大きな果報をもたらすことができる。逆に不適切に用いれば、どのような不幸をもたらすこともできてしまうのである。適切な瞑想法や暗示法によって、できる限り良い思考を持ち、悪い思考を捨て去るよう精進を重ねていくことが肝要である。

 

最後にこうした暗示法に興味がある方は、ミルトン・エリクソン心理療法についての著作やNLPなどについて調べてみると良いだろう。

 

 

 

 

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思考の改善について

ヴィパッサナー瞑想の解釈に引き続いて、ここでは精神的な健康を保ちより良い人生を生きるために重要な思考の改善について述べておこうと思う。うつ病にまで至る過程には人それぞれで様々な経緯があるのだが、一様に共通していると思われるのは、それが長年に渡る固着した否定的な思考の積み重ねによるものであるということではないだろうか。人生における様々な苦難や日常生活の慢性的な抑圧、生育環境、さらには個人が元々持っている性向など、理由は多々あれ、かなりの長期間に渡って形作られた負の自己イメージがある一定の閾値を超えると病的な症状となって現れてくるのである。

 

さらにうつ病を発症すると物事を肯定的に捉えることができなくなり、すべてに於いて悲観的・絶望的な方向に頭が向いてしまう。こうなってしまうとすべてが悪い循環にはまり込んでしまい、そこから抜け出すのは至難の業となってしまう。私がこのブログの大部分を使って身体的な方面からうつ病治療に接近しようとしたのも、そのような負の螺旋を断ち切るには、まず誰でも合理的な方法で成果を見ることができる身体的な健康を取り戻すことで、精神的な方面の改善にもつなげていこうという考えからであった。

 

今まで記述してきた方法論をある程度の期間続けていれば、睡眠や栄養の状態も改善され、ある程度の体力も回復してくることから、病的に悲観的な思考もある程度は自分自身で制御できるようになって来るだろう。さらにヨーガや瞑想の実践も加えれば、病的な負の思考に振り回されることは相当程度に少なくなっていくだろう。

 

ここまである程度の成果を見た後にもう一つ重要になってくるのが、自分自身の心がけの問題であり、意志の問題である。すなわち自分自身がどのような思考の仕方を選んでいくのかということだ。もちろん他者に対してこのような考えを持たなければならないなどと矯正することはできないが、あくまで参考や目安として聞いてもらえれば幸いである。

 

前回の記事でも述べたように仏教では人間の思考というものを根本的な行為であると捉え、それが原因となって様々な現実の世界が結果として現れてくる説く。業やカルマ、因果応報と言う言葉があるが、これは私達のごく身近なところに働いている普遍的な原理なのである

 

ここでもう幾節か法句経から引用しよう。

 

ーー中村元訳 「ブッダ真理の言葉」第三章 心 より

 

心は、動揺し、ざわめき、護り難く、制し難い。英知ある人はこれを直(なお)くする。――弓矢職人が矢柄を直くするように。

心は、捉え難く、軽々とざわめき、欲するがままにおもむく。その心をおさめることは善いことである。心をおさめたならば、安楽をもたらす。

心は、極めて見難く、極めて微妙であり、欲するがままにおもむく。英知ある人は心を守れかし。心を守ったならば、安楽をもたらす。

 

憎む人が憎む人にたいし、怨む人が怨む人にたいして、どのようなことをしようとも、邪なことをめざしている心はそれよりもひどいことをする。

母も父もそのほか親族がしてくれるよりもさらにすぐれたことを、正しく向けられた心がしてくれる。

我々日本人はとかく他人との関係の中にすべてを求め、人生の苦難からの救済もまた他者との関係の中に見出すしかないように思い込まされている節があるが、実際に健康に幸福に生きていくためにもっとも重要なのは、個人がいかにしてみずからの心と行いを正しく整えていくかなのである。これは仏教の基本的な教えである「八つの正しい方法(八正道)」にも明確に説かれている。すなわち、

 

正しいものの見方(正見)、正しい考え(正思惟)、正しい言葉(正語)、正しい行い(正業)、正しい生活(正命)、正しい訓練(正精進)、正しい気付き(正念)、正しい瞑想(正定)

 

である。

八正道 - Wikipedia

 

もし今現在人生の苦難にあるとしても、それを過去の自分自身の身体、言葉、思考による三つの行いの結果であり、原因が尽きれば過ぎ去っていくものであると捉え、今現在正しい行いを積み重ねていくならば、きっとこれから先にはよい人生が待ち構えている。そのような認識を持つことが大事なのである。私は、なんでもかんでもカルト宗教のように自己責任を連呼するここ15年ほどの風潮に個人的には嫌気が差しているが、一方で自らの行いを正すことによる利得というのが現実に存在しているのも確かである。

 

それではここで「正しい」とは一体どのようなことを言うのであろうか。これはごく簡単に定義できる。すなわち、「他者の利益となり、自分の利益ともなること」「他者を養い、自分も養うこと」である。逆に「他者の不益となり、自らの不益となること」「他者を損ない、自らを損なうこと」は間違った行い、悪業であるとされる。

 

しかし、ごく単純に見えるこうした定義も実践していくのは非常に困難である。それは私達の周りにいかに他者も自身も損なう言葉や思考が入り乱れているかを見れば一目瞭然だろう。日本のありとあらゆる小集団の中では他者への陰口や村八分行為は日常茶飯事であるし、もっとも一般の人間の本音が垣間見られると思われるインターネット上の書き込みなどは、幼稚な憎悪で埋め尽くされている。こうした中で自分自身の行いを正していこうとするならば、相当な決意と忍耐が必要となる。

 

また、ここまで読んでくださった方の中には、いわゆる「引き寄せの法則」というものとこうした仏教上の教えがほぼ同じものであることに気づいた方もおられるのではないだろうか。これは正しくそのとおりで、「引き寄せの法則」と言う物自体が、東洋の思想が西洋に移入される過程でキリスト教と習合して発生した「ニューソート」という派閥を母体としているからである。引き寄せの法則の法則にまつわる様々な体験談は確かに、こうした因果の理法を確認するためには有益な部分もある。ただ、一般に流布される「引き寄せの法則」はあくまで金銭や異性関係など、ごく利己的な欲求を叶えるために利用されている節がある。これはやはり好ましくない捉え方であり、他者を利することを第一に考え、その結果としての自己の利益はすべて天に委ね執着を捨てていくような姿勢を持つことが重要であろう。

 

ある程度病から回復した方々はこれを良い学びの機会と捉え、今後周囲の環境の如何に振り回されずに自身の三つの行いを正し、より健康的でよりよい人生を送れるように心がけてほしい。

 

 

 

 

 

瞑想について3 ヴィパッサナー瞑想の効果に対する仏教的解釈

それでは今回は、自分の体や感覚、思考を観察していくだけというごく単純な瞑想法であるヴィパッサナー瞑想が、なぜ心理的な問題を解決していくことに役立つのかについて、自分が今持っている知識と経験の中から解説していく。

 

まず、仏教的な観点から瞑想の効果について考える際にもっとも重要な前提条件は、すべての物事は心によって作り出されているという仏教的な真理である。上座部仏教のもっとも代表的な経典である「法句経(ダンマパダ)」の冒頭の一節には、このことが如実に述べられている。

 

ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
もしも、汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人に付き従う。---車をひく(牛)の足跡に車輪がついてゆくように。

ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
もしも清らかな心で話したり行ったりするならば、福楽はその人に付き従う---影がそのからだから離れないように。

 

ーー中村元訳「ブッダ真理の言葉」より

 

『ブッダの真理のことば(ダンマパダ)』中村元訳 岩波文庫 | 岡野岬石の資料蔵

 

多くの場合、人々は自身が抱える心理的な問題の原因を、外界に求める。しかし、仏教では自身の行為の積み重ねによって外的・内的な状況が成立したのだと考えるのである。しかも仏教における行為とは何も体による行為だけに留まらない。物事の原因となる行為、業(カルマ、サンスクリット語で正しく「行い」を意味し、英語ではしばしば"Action"で訳される)は、三つ、すなわち身体による行い、言葉による行い、思考による行いに分類され、その内でも根本的な原因とされるのは思考による行いなのである。そして人々は往々にして、そうして顕現した問題についてあれこれ思考し執着を続けることにより、その問題を長い時間堂々巡りに再生産し続けてしまう。こうして人々は苦しみに囚われてしまうのである。

 

こうした苦しみの連鎖を止めるにはどうすれば良いのか。重要なのは自分が今、自分自身の行いによって苦しみを作り出しているということを如実に観察し気づくことだ。人は自分の心の行いに気づくことがないからこそ、無意識に同じ思考を繰り返してしまうが、そこに気づきの光、ヴィパッサナー瞑想の用語で言う「サティ」で照らすことにより、新たな業を再生産させることなく、苦しみを滅ぼしていくことができるのである。

 

ここでもう一つ知っておくべきは、仏教的及びインド哲学における心理の基本である。古来より非常に論理的でなおかつ人間の精神の探求というものに長けていたインド人は、人間の精神をいくつかの階層にわけて認識していた。西洋心理学がようやく無意識を見つけ出したのが19世紀後半だということを考えれば、2500年前にすでにここまでの成果に達していたインド文明は驚異的である。唯識やサーンキャなど学派によって用語は異なるが、その分類は大同小異である。以下に基本的なところをまとめてみる。

 

唯識 - Wikipedia

サーンキヤ学派 - Wikipedia

 

1、意識。マナス、アハンカーラ、などとも呼ばれる。普段私達が自分自身だと認識しているところの一般的な意識がこれである。しかし、仏教やインド哲学ではこの意識は本来の自分自身ではなく、その混同が人生のあらゆる苦しみの根本的な原因になっていると説く。

 

2、無意識。末那識、阿頼耶識、ブッディ、マハットなどとも呼ばれる。人間の意識の奥に隠れた、言語化されない領域で、過去の記憶やその人の人格、感情的な反応の根源などが記録されている。催眠における無意識と同じだと思ってもらうとわかりやすい。

 

3、真我。アートマン、プラクリティなどと呼ばれる。意識の根本的な実態であり、この世界のすべてを作り出す唯一の実在である。瞑想によってこの真我に気がつくことこそが、あらゆるインド発の宗教の究極の目的であり、それによってこの世のあらゆる苦しみは消滅すると説かれる。その状態は俗に「悟り」と呼ばれる。

 

真我というものは一般人には理解しがたい部分があるが、神や仏などの言葉で言い換えると少しは把握しやすくなるかもしれない。人間は本来真我こそが存在の本質であり、それはそれそのもので充足をしていて一切のものに汚されない完全な存在なのであるが、肉体を持ちこの世に輪廻することで、感覚器官の刺激や思考、意識などを自分自身と混同し、苦しみの源であるこの現象世界を作り出しているとされる。

 

そして真我の持つ唯一の働きは見ることである。純粋な観照こそが真我の持つ全てであり、真我が他のものを見ることを止め、完全な存在としての自分自身のみを見つめることで、この世界の展開は停止し一切に対する智慧が生まれる。

 

なお、少し仏教を勉強した人であれば、仏教は諸法非我を説きアートマンの存在を否定しているではないか、と反論するかもしれないが、それは早とちりである。お釈迦様は仏典のどこでもアートマンの存在を否定してなどいない。諸法非我とは、一切の現象、形となって現れたものはアートマンではない、と言っているに過ぎないのである。同時に仏教では天上天下唯我独尊などとも言われるが、これは俗に言う超自己中の意味などではもちろんなく、この世には我=アートマン以外のものは存在しないと言っているのだ。

 

さてここまで読めば、あの単純なヴィパッサナー瞑想の方法論が、実際には何を目指しているものなのかが分かったのではないだろうか。あらゆる物事について判断を交えず、ただ純粋に観察していくヴィパッサナー瞑想とは、人間の精神の本質であるアートマンに立ち返る作業なのである。観察をすることによって、観察された対称と観察者の間には距離が生じる。この事により、普段自分自身の本質だと混同している思考や記憶、感覚などから離れ、一切の苦しみに汚されない自己の本質であるアートマンに気がつくことができるようになっていくのである。これがお釈迦様が説かれ、「この世の一切の苦しみを滅ぼす方法の具体的な中身なのである。

 

だからこそ自分の生い立ちがどのようなものであれ、また、精神を病むまでに至った原因がどのようなものであれ、ヴィパッサナー瞑想を普段に実践し続ければ、必ずその苦しみの原因を乗り越えることができるのである。

 

今回の記事で書いたことは、少なからぬ人々にとっては宗教臭が強すぎ、また突拍子もなさすぎて理解するのが難しいかもしれない。なので、瞑想を始める動機は最初のうちはごく卑近なもので良いと思う。たとえば病気を治したいとか、能力を開発しもっと仕事を上手くいかせたいとか言ったように。しかし、瞑想を実践していけば、必ず人間の精神に潜むその先の神秘が垣間見えてくるはずである。その時に今回の記事を少し思い出していただいて、自身で関連の書籍などを漁りながらより深い知識を身に着けていってもらえれば幸いである。

 

 

 

 

 

 

 

瞑想について2 瞑想のやり方について

それでは今回の記事では具体的な瞑想の方法について解説していく。瞑想法は世の中に様々あり、中には初心者が実践するのは難しいものも多々ある。よくあるイメージを使った瞑想法は特に難易度が高く、継続していくのが難しいし、座禅のようにいきなり何も考えない無の境地に入れというのもほぼ不可能に近いと言ってよいだろう。

 

ここでまず瞑想の入門編として、誰でも確実かつ簡単に実践できる手軽な瞑想法をいくつか紹介してみよう。

 

眉間凝視法

 

1、あぐらで座り背筋を伸ばす。

2、呼吸を落ち着ける。

3、目をつぶり、眉間に意識を集中する。

 

これは筆者がインドの僧院に滞在していた際、現地の僧侶から教わったもっとも簡単とされる瞑想法である。左脳と右脳のバランスを取るとか前頭前野の働きを高めるとか、色々とそれらしい説明はできそうだが、この単純な方法でも集中力を高め、瞑想の基本的な恩恵を享受するには十分すぎるほどの効果がある。

 

数息観

1、2、までは上記と同じ。

3、吐く息に意識を集中し、心の中で呼吸の数を数える。十まで数えたらまた一から数え直し、途中で数を忘れた場合も一に戻る。

 

こちらも非常に単純なやり方であるが、実は臨済宗では伝統的に行われている入門者向けの座禅法でもある。数を数えるという単純な作業に集中し続けることによって、表層的な意識の働きが弱まり、徐々に瞑想状態が深まって来るのが実感できるだろう。

 

さらにこの数息観を説いた江戸時代中期の名僧白隠禅師は、自身が修行のし過ぎから神経症を発症した時に、軟酥の法と呼ばれる臥位で行う瞑想法で治癒したと言われている。この方法は現在の催眠療法自律訓練法などで取り入れられているものと非常に近く、心身のくつろぎや各種の神経症状の緩和に確かに効果があるものと見込まれる。

 

1、布団の上に寝そべり、手と脚を軽く開いてくつろぐ。

2、呼吸を落ち着ける。

3、頭の上に芳しい香薬が乗っている所を想像する。(この軟酥というのはもともとインドで用いられるバターのようなものである。滋養に満ち、あらゆる病を癒すことができるそのようなものを想像するとよいだろう)

4、その香薬が額から目や耳や口、首筋、肩、胸、背中、など徐々に体の中を降りてくるところを想像し、下腹部を通って足の先へと抜けていくことを想像する。

 

このような方法を実践することで、全身の力を抜き、深い安楽状態に入っていくことができる。普段の無駄な緊張から来る精神症状を緩和するのにとても効果的である。

 

上記のような簡易的な方法を一~二ヶ月も続けていれば、徐々に瞑想状態に入っていく感覚が掴めていくことだろう。

 

そしてある程度瞑想に慣れてきた段階で、本式の瞑想法に移行していくべきである。ここで私が正式な瞑想法としておすすめするのは、やはり今流行の「マインドフルネス」の元となった、お釈迦様が説かれた仏教本来の瞑想法である「ヴィパッサナー瞑想」である。この瞑想法は方法論自体は至って単純で、誰でも一日もあれば覚えられるものでありながら、そこから得られるものは実践を続けた人の人生を根本から変えてしまうほどに価値がある。何しろ、この世のあらゆる苦しみを滅ぼすと言う教えを説く仏教の、具体的な実践法こそがこのヴィパッサナー瞑想なのだ。それが2500年もの間、世界中のあらゆる国々の何千万もの人々によって実践され続けてきたのだから、これほど信頼できるものはないであろう。

 

それでは以下がヴィパッサナー瞑想の具体的なやり方である。

 

1、半跏趺坐(片方の足をもう片方の脚の腿に乗せて組む坐法)か結跏趺坐(両方の足をそれぞれ別の脚の腿の上に乗せて組む坐法。) で座り、尾てい骨から頭頂まで背筋をピンと伸ばす。両手は重ねて足の上に置き、下腹部の前で両親指の先を付けて円を作る。これを法界定印という。ちょうど下の如来像のような形である。

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2、数回深呼吸をして気分を落ち着ける。

3、息を吐く時に心の中で「吐いている」と実況する。同じく吸うときにも「吸っている」と実況する。

4、心の中に雑念が浮かんできた時は、それを押さえつけようとせずただ「雑念」と実況する。音や臭いなどが気になる時も心の中で「雑音」や「臭い」と唱える。

 

この瞑想法の核となるのは、普段無意識に自分が接している感覚や思考を、一切の判断を交えずただそれそのものとして気づき観察することである。非常に単純明快な方法であるが、これを日々実践すると驚くべきほどに自分の心が軽くなり、長年のわだかまりが解消していくのがわかる。

 

 

なぜこのような方法によって心理的な苦しみが解消されるのか。それにはある程度の仏教の教えに関する知識が必要となる。先にも書いたように宗教というと毛嫌いされる方もいるかも知れないが、古代ギリシャ人と並ぶほどに論理的な民族であるインド人が作り出した仏教やヨーガの教えは、現代的の科学的価値観に照らし合わせても十分に納得できるほどの人間の心理やこの世界の原理というものに対する洞察に満ちている。

 

次回は現在の私の持てるだけの知識を使って、少しそうした方面について解説してみようと思う。何かの宗派に入れなどと勧誘するつもりは毛頭ないが、このような考え方を知っていると、これから精神的な健康というものを上手く維持していくために有益となる部分が多分にあると信じるからである。

瞑想について

今までの記事では主に体の健康という側面について記述してきた。うつ病になった原因というのは多くの場合確かに精神的な過負荷なのであろうが、一度病的な状態にまで進行してしまった場合は、まずは失われてしまった肉体の健康を取り戻すことが第一だからだ。以前にも述べたように人間の心身は互いに関連しあっており、もし肉体の均衡が崩れてしまった場合はそれが精神的にも悪影響を及ぼす。そして、精神的な健康を取り戻すのは、精神が目に見えずとらえどころのないものであるからこそ肉体的なそれに比べて遥かに難しい。だからこそまず第一に肉体的な健康を取り戻すことで、不必要な気分の落ち込みや不安感などを和らげ、目に見えない精神を強力に支えてやる必要があったのである。

 

当たり前のことではあるが、人間は決して肉体のみで成り立っているのではない。そしてうつ病の原因もまた、肉体的な方法論のみで完全に解決させることも難しいだろう。しかし難しいのは、精神的な問題というのは個々人の生育環境や今までの経験、性向や思考など様々な要因が複雑に絡み合って成り立っているために、万人に普遍的に適応できる、合理的方法論というものが肉体的な健康の場合に比べて成り立ちにくいのである。

 

精神分析認知行動療法など、いわゆる「科学的」とされている精神療法も少なからずあるが、そのどれもが個人で行うには敷居が高すぎ、かなりの高額な費用を払って専門家を見つける必要がある。しかも精神療法が全く未発達の日本では、その専門家も信用できる人物である可能性は極めて低く、いつまで経っても効果のでない精神療法に延々に金銭を吸い取られ続ける結果になってしまう可能性が極めて高い。

 

そもそも近代科学というのは精神と物質を厳密に分けて考える二元論から成り立っているが、その内精神の部分を担当するはずだったキリスト教の文化が元から存在しないこの国では、精神を考えることを端から諦めて、唯物論のみが唯一の真理の基準になってしまっている。そんなわけであるから、精神の治療などという複雑で高度な問題を扱える人間など探そうにも探すことはできないのだ。

 

と、個々まで悲観的なことばかり並べたが、しかし、個人がまったく何の費用もかけず、自分自身の日々の実践のみで精神的な問題を解決に導いていける確実な方法というのが実はこの世界には太古の昔から存在している。それが今回紹介する瞑想法なのである。

 

オウム真理教の事件があって以降、日本では宗教的なものが危険な詐欺と同一視され、瞑想もそうした文脈のもとに、いかがわしく非科学的で取るに足らないものであると広く認識されてしまっている。しかし、カウンターカルチャー以降、東洋の伝統文化を受け入れてきた欧米各国では、瞑想法というのは個人が簡単に行うことができる精神安定法や能力開発法として相当程度に評価されている。かのスティーブ・ジョブズが若い頃に禅に憧れ、自身でも座禅を組んでいたというのは有名な話であるし、シリコンバレーでは上座部仏教の「ヴィパッサナー」を現代風に解釈し直したいわゆる「マインドフルネス」瞑想というのがここ十数年の間流行になっている。この流れが日本にも逆輸入されており、企業人の間などでも瞑想法に興味を持つ人間が徐々に増えてきているのである。

マインドフルネス - Wikipedia

 

瞑想が持つ効果については様々な説明が試みられている。最近流行りなのは、例の「モノアミン仮説」に依拠したものだろう。瞑想中に行う意図的な呼吸のリズム運動が、脳のセロトニン神経系を賦活させ、精神の安定に効果があるというものだ。しかし私自身はやはり、このような唯物的な説明が瞑想というものの本質を説明しきれているとは思わない。瞑想の実践によって触れることのできる人間の精神の深層はこのような認識を遥かに超えたものであると考えるからだ。始めの動機はうつ病の克服でも能力開発でも何でも良いが、そこから少しずつ学びを深めていくことによって、いずれはそうしたより深い部分にある精神の真実のようなものに気づいていくことができるだろう。

 

では、瞑想を行っていくことでどのような効果が見られるのか。初期段階でも実感できるものには、次のようなものがある。

 

・集中力の向上

・気分の安定

・依存からの脱却

・安眠

・思考力の向上

・記憶力の向上

・トラウマからの脱却

・ストレスを受け流す力の向上

疲労の軽減

 

これらは瞑想の本来の目的からすればまだまだ些末なものであるからしれないが、瞑想以外の方法で実現するのは非常に難しいものばかりである。全く費用をかけることなく、一日に2~30分ほどの時間を規則的に投資するだけでこれだけの見返りがあるのであるから、やらないほうが損というものだろう。

 

今回は御託が長くなってしまったので、これくらいにとどめておく。次回は誰でもやることができる具体的な瞑想の方法について紹介するつもりである。

 

 

 

ヨーガについて

前回までの記事で紹介してきた食事法や依存の断ち切り方、あるいは禁欲のすすめなどは、少なからぬ人たちにとってはあまりにも強い自制が必要となるために、実践が困難だと感じられてしまうからしれない。「頭ではわかっているのだけれど、なかなか現実にはうまくいかない」。生活習慣を正すことが良いことだとわかっているのに、なかなか以前の悪い習慣を抜け出せないのは、往々にしてそのような心理が原因であろう。

 

そんな時におすすめしたいのがヨーガの実践である。毎日20~30分ほど規則的に練習を積むだけで、数ヶ月もすれば集中力が身につくと同時に目先の欲求に左右されない自制心も強まり、さらに体が自然本来の状態を回復するために、自分の体にとって良いものと悪いものを本能的に見分ける事ができるようになる。実際ヨーガの実践は各種の依存症にもてきめんの効果を発揮し、酒や煙草その他の悪習も無理なく止めることができる。

 

ヨーガというのは本来の語義では悟りに至るための各種の精神的な修練法を指すのだが、ここでは一般的に日本でイメージされる通り、インド言うところの「ハタ・ヨーガ」、すなわち体位や呼吸法を使った健康体操としてのヨーガについて述べていく。

 

ヨーガの健康効果には実に驚くべきものがある。ヨーガを実践し始めてから数ヶ月程度で、数年から時には数十年に渡って苦しめられてきた慢性的な症状が嘘のように治ってしまったなどという話は決して珍しいものではない。これは、ヨーガの対位法によって体の無駄な緊張や歪みが矯正されると、血液や体液、神経系の流れが正常化されるので、付随的に内蔵の働きも活発化し、人体が本来の治癒力を取り戻すためであると考えられる。もちろんうつ病神経症に対する効果も絶大で、簡単な対位法を2ヶ月ほども実践し続ければ、気分の爽快感や体の軽快感、不眠の改善など様々な効果を実感することができるであろう。

 

ヨーガの体位は多岐に渡り、中には一般人では到底真似できないようなものも少なからずあるが、初心者が健康効果を得るという目的のために行うのならば、それほど難しいことをする必要はない。覚えておくべき体位法はまずは二つ、ヨーガの基本的な背骨に対する刺激を一連の動作の中にまとめ上げたいわゆる「太陽礼拝」というものと、それに唯一含まれていない背骨をねじる体位である。

 

まずは太陽礼拝から説明していこう。

1、直立した状態で合掌

2、息を吸い込みながら両手を大きく広げ、上を仰ぎ見ながら背骨を反らす

3、息を吐きながら前屈姿勢

4、地面に手を付きながら屈んで上を見る

5、右足を後方に伸ばし、背骨を反らして息を吸い込む

6、猫の背伸びのように、両手と両足で支えながら「く」の字に体を折り曲げる

7、左足を元に戻し、5と逆の形

8、屈む姿勢。4と同じ

9、前屈姿勢。3と同じ

10、1に戻る

以下繰り返し。

 

文章ではわかりにくいと思うので、Youtubeの動画なども参考にしてほしい。


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この太陽礼拝はヨーガの最も基本となるものであり、なおかつヨーガの精髄が凝縮されたとても完成度が高い体位法である。これだけを毎日2回ほど行うだけでも十分すぎるほどの健康増進効果を実感できるようになることだろう。

 

さらにこれに加えるねじりの体位には複数の種類がある。もっとも正式なのはマッチェンドラアーサナと呼ばれるものである。

 

1、あぐらをかいた状態から右足を立てて左足の太ももの脇に交差させる

2、左腕の肘を右脚の膝に交差させて伸ばす

3、右腕を背骨の後ろに回し、右手を地面につく

4、後ろを振り向く形で背骨をねじる

左右交代してもう一度。

 

こちらも動画を見るとわかりやすいだろう。

 


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この体位法は数百年前に書かれたとされるヨーガの原点、「ハタ・ヨーガプラディーピカー」にも登場する由緒正しいものである。身体と脳を繋ぐ役目を果たす脊髄神経系に適度な刺激を与えると同時に、内蔵全般を活発化させることができる優れた体位法である。

 

しかし、全くの初心者にとっては少々難易度が高い部分があり、特に体の高い人は最初からこの体位法を行うのは無理があるかもしれない。そんな時はより簡易的な体位から徐々に慣らしていくのが良いであろう。

 

初心者にもっともおすすめなのは臥位で行うねじりの体位である。俗にワニのポーズなどとも呼ばれたりする。

 

1、床の上に仰向けに寝て両手を大の字に広げる

2、右足を垂直に大きく上げる

3、徐々に右足を体の左側に倒していく

4、右膝を折り、左手で押さえる。顔は右方向を向き背骨をねじる

左右を変えてもう一回。

 


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上記の太陽礼拝とねじりの体位だけなら、一日に15分程もあれば一通り行うことができるだろう。なお、これらの体位法を行うに当たっての注意点は、必ず胃にものが入っていない空腹時に行うことだ。食後に行うと、内臓に無理な負荷がかかり逆効果になってしまう可能性がある。理想としては毎日普段より20分ほど早起きし、朝方の新鮮な空気と静寂を感じながら、くつろいだ心地で取り組むのが良いだろう。また、体位法を行うには絶対に無理をしてはならない。自分の状態をよく観察し、心地よいと感じる範囲で行うことを心がけよう。ヨーガの哲学では、曲芸のような難しい体位を取ることよりも、自分の体の状態を観察することのほうが遥かに重要だとされているのだ。

 

さらに余裕があれば、簡単な呼吸法にも挑戦してもらいたい。普段は自立神経により無意識的に調節されている呼吸であるが、自分の意志で操作することもできる。呼吸はいわば、人間の意識と無意識の中間に位置する活動なのである。呼吸法に日々意図的に取り組むことにより、不安やあがり症などの自律神経系の不具合を意志の力ではうまく制御できるようになっていく。

 

ヨーガの代表的な呼吸法、「スーリヤベーダナ(太陽呼吸法)」のやり方は以下の通り。

 

1、あぐらでくつろいで座り、右手の人差指を額に当てる

2、右手の小指と薬指で左の鼻孔を押さえる

3、右の鼻孔から息を8数えるまで吐き出す。この時、会陰部と肛門を強く引き締める

4、右の鼻孔から4数えるまで息を吸う

5、右手の親指で右の鼻孔を閉じ、7数えるまで息を止める。この時、顎を引き締め喉を上げる

6、右の鼻孔を押さえたまま左の鼻孔を開放し8数えるまで息を吐き出す

 

以降、左右同じことを12回ほど繰り返す。

 


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この呼吸法を日々続けることにより、新鮮な酸素が供給され脳の機能が活発化されると同時に、肺活量も増し呼吸も深くなるため、体が軽く感じ爽快感を得ることができる。また、集中力の向上や精神が安定し外界の出来事に動じにくくなるなど、精神的な効果も多分に得られる。

 

ヨーガはこの15年ほど世界的に非常に人気があるが、それは取りも直さず、日々地道に実践を続けていくことによって、誰もが相当な健康効果を実感できるからであろう。しかも一度やり方を覚えてしまえば、全くお金がかからない。損をすることは何一つないのであるから、ここは騙されたと思って一度始めてみてはいかがだろうか。

 

もし、この記事でヨーガに少しでも興味を持っていただけたのであれば、さらに多くの体位法なども自身で勉強して実践しもらいたい。そして、ヨーガとは実際には人間の人生のすべてを包括するような広大な哲学の体系でもあるので、そちらの知的な側面の理解も深めていただければ、きっと人生を180度変えてしまうような実りをもたらすことだろう。以下におすすめの書籍をいくつか紹介しておく。

 

 

ヨーガ入門 ココロとカラダをよみがえらせる

ヨーガ入門 ココロとカラダをよみがえらせる

  • 作者:佐保田 鶴治
  • 発売日: 2001/12/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 
ヨーガ禅道話

ヨーガ禅道話

 

 

 

 

 

シヴァーナンダ・ヨーガ―愛と奉仕に生きた聖者の教え
 

 

 

禁欲について

前回までの記事で、睡眠と食事の改善法について述べた。この二つの健康に対する根本的な基盤が正され、身体が本来の治癒力を取り戻していくに従って、過度な落ち込みや不安などと言った精神的な症状も徐々に緩和されていくことだろう。しかし、もう一点人間の健康の基盤を作る上で避けては通れない要素がある。すなわち人間の三大欲求の最後の残りである性欲のことだ。

 

性欲もまた人間にとって普遍のものであり、強い興奮や快楽をもたらし依存性も高いことから、資本主義社会では都合のよい商品として消費されている。特にこの日本ではそうだ。私達が簡単に手の届く範囲にどれだけ性的な消費財が溢れているかを数えてみるとよい。コンビニエンスストアでは子供の目に触れる場所に堂々と成人向け雑誌が並べられ、インターネット上では誰もがごく簡単にあらゆる種類の成人向け動画を視聴する環境が整っている。そして、性欲を過度に煽り立てることが、さも活力と健康の象徴であるかのように我々は刷り込まれて、特に男性は思春期を過ぎる頃から自慰に中毒してしまっている場合も多いであろう。

 

しかし、過度の性的な行為は完全に自然に反するものである。野生動物は基本的に限られた時期にしか発情せず、それ以外の期間は一切性的な行為を行わない。より原初的な生物ともなると、性行為を行った後に死んでしまうものも少なくない。射精をした場合に、得も言われない虚脱感や虚無感に襲われるというのは、男性ならば誰しもが経験のあることであろう。性行為というのは本来次の世代に生命を繋ぐために行われるものである。そのためには、性行為をするたびに個体の生命を削り取っているのだということをよく覚えておいてほしい。

 

ならば、みだりに射精によって生命の活力を浪費せず、その力を蓄積し自らのために利用したらどうなるのだろうか。世界中のありとあらゆる宗教では必ずと言っていいほど禁欲の美徳を説くが、中でもインドを起源とする仏教やヒンドゥー教は特に禁欲をことさらに重視し、独自の理論体系を構築している。射精をしないこと、性的な行為を行わないことは、サンスクリット語で「ブラフマチャリア(梵行、ブラフマンに至る行為)」と呼ばれる。これはただ単に社会的な道徳観から言われることなどではなく、生命エネルギーを蓄積し昇華させることで、より高次の能力を開発し、やがては悟りに至ろうとする実践的な方法論なのである。

 

翻って日本でも十年ほど前から、ネット上で俗に「オナ禁」と呼ばれるものの効果が注目されてきた。多分初出はナポレオン・ヒルの勇名な自己啓発本「思考は現実化する」であろう。

そこで流布される効果は驚異的である。自慰を一切行わないだけで日々活力に満ち、早起きも苦にならず、肌が若返り、目つきが良くなり、頭脳の回転が早くなり、そしてなによりも異性にモテるというのである。理屈としては良性の男性ホルモンであるテストステロンが活性化することで、男性の肯定的側面である意欲や行動力が増すというものだ。

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 他の多くの自己啓発系の情報と同じように、衆目を引くためにかなり誇張している感は否めないが、かと言って、こうしたところに書かれていることが全く嘘であるとは思わない。人によって効果はまちまちであろうが、禁欲をすることで活力や能力面でかなりの改善が見られることは間違いないだろう。

 

気力や体力が落ち込み、何をする意欲を持つこともできなくなってしまっているうつ病患者にとっては禁欲はただ「何もしない」という選択肢を取ることで、状況を改善することができる非常に優れた手段であると言える。そしてさらに、禁欲は後に紹介するヨーガや瞑想を行っていくに当たっては基盤となる技術であり、それなしでは進歩を望むことが難しくなってしまうので、できるかぎり実践していくべきである。

 

今までそのようなことを気にかけてこなかった人は、まず一週間ほど試してみて、その効果の程を実感してみてはいかがだろうか。