うつ病を治すための個人的方法

個人的経験からうつ病の効果的な治し方について解説していく。

瞑想について3 ヴィパッサナー瞑想の効果に対する仏教的解釈

それでは今回は、自分の体や感覚、思考を観察していくだけというごく単純な瞑想法であるヴィパッサナー瞑想が、なぜ心理的な問題を解決していくことに役立つのかについて、自分が今持っている知識と経験の中から解説していく。

 

まず、仏教的な観点から瞑想の効果について考える際にもっとも重要な前提条件は、すべての物事は心によって作り出されているという仏教的な真理である。上座部仏教のもっとも代表的な経典である「法句経(ダンマパダ)」の冒頭の一節には、このことが如実に述べられている。

 

ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
もしも、汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人に付き従う。---車をひく(牛)の足跡に車輪がついてゆくように。

ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
もしも清らかな心で話したり行ったりするならば、福楽はその人に付き従う---影がそのからだから離れないように。

 

ーー中村元訳「ブッダ真理の言葉」より

 

『ブッダの真理のことば(ダンマパダ)』中村元訳 岩波文庫 | 岡野岬石の資料蔵

 

多くの場合、人々は自身が抱える心理的な問題の原因を、外界に求める。しかし、仏教では自身の行為の積み重ねによって外的・内的な状況が成立したのだと考えるのである。しかも仏教における行為とは何も体による行為だけに留まらない。物事の原因となる行為、業(カルマ、サンスクリット語で正しく「行い」を意味し、英語ではしばしば"Action"で訳される)は、三つ、すなわち身体による行い、言葉による行い、思考による行いに分類され、その内でも根本的な原因とされるのは思考による行いなのである。そして人々は往々にして、そうして顕現した問題についてあれこれ思考し執着を続けることにより、その問題を長い時間堂々巡りに再生産し続けてしまう。こうして人々は苦しみに囚われてしまうのである。

 

こうした苦しみの連鎖を止めるにはどうすれば良いのか。重要なのは自分が今、自分自身の行いによって苦しみを作り出しているということを如実に観察し気づくことだ。人は自分の心の行いに気づくことがないからこそ、無意識に同じ思考を繰り返してしまうが、そこに気づきの光、ヴィパッサナー瞑想の用語で言う「サティ」で照らすことにより、新たな業を再生産させることなく、苦しみを滅ぼしていくことができるのである。

 

ここでもう一つ知っておくべきは、仏教的及びインド哲学における心理の基本である。古来より非常に論理的でなおかつ人間の精神の探求というものに長けていたインド人は、人間の精神をいくつかの階層にわけて認識していた。西洋心理学がようやく無意識を見つけ出したのが19世紀後半だということを考えれば、2500年前にすでにここまでの成果に達していたインド文明は驚異的である。唯識やサーンキャなど学派によって用語は異なるが、その分類は大同小異である。以下に基本的なところをまとめてみる。

 

唯識 - Wikipedia

サーンキヤ学派 - Wikipedia

 

1、意識。マナス、アハンカーラ、などとも呼ばれる。普段私達が自分自身だと認識しているところの一般的な意識がこれである。しかし、仏教やインド哲学ではこの意識は本来の自分自身ではなく、その混同が人生のあらゆる苦しみの根本的な原因になっていると説く。

 

2、無意識。末那識、阿頼耶識、ブッディ、マハットなどとも呼ばれる。人間の意識の奥に隠れた、言語化されない領域で、過去の記憶やその人の人格、感情的な反応の根源などが記録されている。催眠における無意識と同じだと思ってもらうとわかりやすい。

 

3、真我。アートマン、プラクリティなどと呼ばれる。意識の根本的な実態であり、この世界のすべてを作り出す唯一の実在である。瞑想によってこの真我に気がつくことこそが、あらゆるインド発の宗教の究極の目的であり、それによってこの世のあらゆる苦しみは消滅すると説かれる。その状態は俗に「悟り」と呼ばれる。

 

真我というものは一般人には理解しがたい部分があるが、神や仏などの言葉で言い換えると少しは把握しやすくなるかもしれない。人間は本来真我こそが存在の本質であり、それはそれそのもので充足をしていて一切のものに汚されない完全な存在なのであるが、肉体を持ちこの世に輪廻することで、感覚器官の刺激や思考、意識などを自分自身と混同し、苦しみの源であるこの現象世界を作り出しているとされる。

 

そして真我の持つ唯一の働きは見ることである。純粋な観照こそが真我の持つ全てであり、真我が他のものを見ることを止め、完全な存在としての自分自身のみを見つめることで、この世界の展開は停止し一切に対する智慧が生まれる。

 

なお、少し仏教を勉強した人であれば、仏教は諸法非我を説きアートマンの存在を否定しているではないか、と反論するかもしれないが、それは早とちりである。お釈迦様は仏典のどこでもアートマンの存在を否定してなどいない。諸法非我とは、一切の現象、形となって現れたものはアートマンではない、と言っているに過ぎないのである。同時に仏教では天上天下唯我独尊などとも言われるが、これは俗に言う超自己中の意味などではもちろんなく、この世には我=アートマン以外のものは存在しないと言っているのだ。

 

さてここまで読めば、あの単純なヴィパッサナー瞑想の方法論が、実際には何を目指しているものなのかが分かったのではないだろうか。あらゆる物事について判断を交えず、ただ純粋に観察していくヴィパッサナー瞑想とは、人間の精神の本質であるアートマンに立ち返る作業なのである。観察をすることによって、観察された対称と観察者の間には距離が生じる。この事により、普段自分自身の本質だと混同している思考や記憶、感覚などから離れ、一切の苦しみに汚されない自己の本質であるアートマンに気がつくことができるようになっていくのである。これがお釈迦様が説かれ、「この世の一切の苦しみを滅ぼす方法の具体的な中身なのである。

 

だからこそ自分の生い立ちがどのようなものであれ、また、精神を病むまでに至った原因がどのようなものであれ、ヴィパッサナー瞑想を普段に実践し続ければ、必ずその苦しみの原因を乗り越えることができるのである。

 

今回の記事で書いたことは、少なからぬ人々にとっては宗教臭が強すぎ、また突拍子もなさすぎて理解するのが難しいかもしれない。なので、瞑想を始める動機は最初のうちはごく卑近なもので良いと思う。たとえば病気を治したいとか、能力を開発しもっと仕事を上手くいかせたいとか言ったように。しかし、瞑想を実践していけば、必ず人間の精神に潜むその先の神秘が垣間見えてくるはずである。その時に今回の記事を少し思い出していただいて、自身で関連の書籍などを漁りながらより深い知識を身に着けていってもらえれば幸いである。