うつ病を治すための個人的方法

個人的経験からうつ病の効果的な治し方について解説していく。

思考の改善について

ヴィパッサナー瞑想の解釈に引き続いて、ここでは精神的な健康を保ちより良い人生を生きるために重要な思考の改善について述べておこうと思う。うつ病にまで至る過程には人それぞれで様々な経緯があるのだが、一様に共通していると思われるのは、それが長年に渡る固着した否定的な思考の積み重ねによるものであるということではないだろうか。人生における様々な苦難や日常生活の慢性的な抑圧、生育環境、さらには個人が元々持っている性向など、理由は多々あれ、かなりの長期間に渡って形作られた負の自己イメージがある一定の閾値を超えると病的な症状となって現れてくるのである。

 

さらにうつ病を発症すると物事を肯定的に捉えることができなくなり、すべてに於いて悲観的・絶望的な方向に頭が向いてしまう。こうなってしまうとすべてが悪い循環にはまり込んでしまい、そこから抜け出すのは至難の業となってしまう。私がこのブログの大部分を使って身体的な方面からうつ病治療に接近しようとしたのも、そのような負の螺旋を断ち切るには、まず誰でも合理的な方法で成果を見ることができる身体的な健康を取り戻すことで、精神的な方面の改善にもつなげていこうという考えからであった。

 

今まで記述してきた方法論をある程度の期間続けていれば、睡眠や栄養の状態も改善され、ある程度の体力も回復してくることから、病的に悲観的な思考もある程度は自分自身で制御できるようになって来るだろう。さらにヨーガや瞑想の実践も加えれば、病的な負の思考に振り回されることは相当程度に少なくなっていくだろう。

 

ここまである程度の成果を見た後にもう一つ重要になってくるのが、自分自身の心がけの問題であり、意志の問題である。すなわち自分自身がどのような思考の仕方を選んでいくのかということだ。もちろん他者に対してこのような考えを持たなければならないなどと矯正することはできないが、あくまで参考や目安として聞いてもらえれば幸いである。

 

前回の記事でも述べたように仏教では人間の思考というものを根本的な行為であると捉え、それが原因となって様々な現実の世界が結果として現れてくる説く。業やカルマ、因果応報と言う言葉があるが、これは私達のごく身近なところに働いている普遍的な原理なのである

 

ここでもう幾節か法句経から引用しよう。

 

ーー中村元訳 「ブッダ真理の言葉」第三章 心 より

 

心は、動揺し、ざわめき、護り難く、制し難い。英知ある人はこれを直(なお)くする。――弓矢職人が矢柄を直くするように。

心は、捉え難く、軽々とざわめき、欲するがままにおもむく。その心をおさめることは善いことである。心をおさめたならば、安楽をもたらす。

心は、極めて見難く、極めて微妙であり、欲するがままにおもむく。英知ある人は心を守れかし。心を守ったならば、安楽をもたらす。

 

憎む人が憎む人にたいし、怨む人が怨む人にたいして、どのようなことをしようとも、邪なことをめざしている心はそれよりもひどいことをする。

母も父もそのほか親族がしてくれるよりもさらにすぐれたことを、正しく向けられた心がしてくれる。

我々日本人はとかく他人との関係の中にすべてを求め、人生の苦難からの救済もまた他者との関係の中に見出すしかないように思い込まされている節があるが、実際に健康に幸福に生きていくためにもっとも重要なのは、個人がいかにしてみずからの心と行いを正しく整えていくかなのである。これは仏教の基本的な教えである「八つの正しい方法(八正道)」にも明確に説かれている。すなわち、

 

正しいものの見方(正見)、正しい考え(正思惟)、正しい言葉(正語)、正しい行い(正業)、正しい生活(正命)、正しい訓練(正精進)、正しい気付き(正念)、正しい瞑想(正定)

 

である。

八正道 - Wikipedia

 

もし今現在人生の苦難にあるとしても、それを過去の自分自身の身体、言葉、思考による三つの行いの結果であり、原因が尽きれば過ぎ去っていくものであると捉え、今現在正しい行いを積み重ねていくならば、きっとこれから先にはよい人生が待ち構えている。そのような認識を持つことが大事なのである。私は、なんでもかんでもカルト宗教のように自己責任を連呼するここ15年ほどの風潮に個人的には嫌気が差しているが、一方で自らの行いを正すことによる利得というのが現実に存在しているのも確かである。

 

それではここで「正しい」とは一体どのようなことを言うのであろうか。これはごく簡単に定義できる。すなわち、「他者の利益となり、自分の利益ともなること」「他者を養い、自分も養うこと」である。逆に「他者の不益となり、自らの不益となること」「他者を損ない、自らを損なうこと」は間違った行い、悪業であるとされる。

 

しかし、ごく単純に見えるこうした定義も実践していくのは非常に困難である。それは私達の周りにいかに他者も自身も損なう言葉や思考が入り乱れているかを見れば一目瞭然だろう。日本のありとあらゆる小集団の中では他者への陰口や村八分行為は日常茶飯事であるし、もっとも一般の人間の本音が垣間見られると思われるインターネット上の書き込みなどは、幼稚な憎悪で埋め尽くされている。こうした中で自分自身の行いを正していこうとするならば、相当な決意と忍耐が必要となる。

 

また、ここまで読んでくださった方の中には、いわゆる「引き寄せの法則」というものとこうした仏教上の教えがほぼ同じものであることに気づいた方もおられるのではないだろうか。これは正しくそのとおりで、「引き寄せの法則」と言う物自体が、東洋の思想が西洋に移入される過程でキリスト教と習合して発生した「ニューソート」という派閥を母体としているからである。引き寄せの法則の法則にまつわる様々な体験談は確かに、こうした因果の理法を確認するためには有益な部分もある。ただ、一般に流布される「引き寄せの法則」はあくまで金銭や異性関係など、ごく利己的な欲求を叶えるために利用されている節がある。これはやはり好ましくない捉え方であり、他者を利することを第一に考え、その結果としての自己の利益はすべて天に委ね執着を捨てていくような姿勢を持つことが重要であろう。

 

ある程度病から回復した方々はこれを良い学びの機会と捉え、今後周囲の環境の如何に振り回されずに自身の三つの行いを正し、より健康的でよりよい人生を送れるように心がけてほしい。